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ダウンタウン・浜田雅功の黒塗りメイク騒動に気づかされた自分の未熟なところ。

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ダウンタウン浜田さんが、「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで」大晦日年越しスペシャル2017で、エディマーフィーに扮して笑いを取ったことに関して、「差別」との声が上がっているとのこと。

作り手に「差別意識」はなかったと思いますが、視聴者した人の中には「差別」と捉える人もいるわけです。差別と思ったらブログやSNSなどを通して好き放題文句を言って騒ぎます。

わかっておりますが、今はそういう時代なのです。テレビ番組も考えなくてはなりません。何をやっても楽しまれるわけではないのです。

面白ければ何をやってもいいわけではない

批判ばかりの世の中、それってどうなの?

最初にこのニュースを読んだとき、批判ばかりのつまらない世の中になったなと思いました。そういう批判ばかりする人が増えたせいか、テレビがどんどんつまらなくなっている気がするからです。

そもそも批判する人が増えたのは何故でしょう。

それはきっと、インターネットは匿名だからです。自分の顔も名前もばれないから、何でも言えるのです。匿名でなければ自分の意見が言えない人って、きっと会社とかでも陰口ばかりたたいている人なのでしょう。そんな想像できます。

批判ばかり言うのもどうなのでしょうね。

いや、批判を言えない世の中の方がおかしい

ここまで考えた時、なんだか私の方が未熟な奴だと思いました。

よくよく考えてみれば、もしインターネットが発展していなかったとしたら、一人一人の人間の主張を発信できる場は存在したのでしょうか。駄目なものは駄目と言える場所はあったのでしょうか。

もしかしたら無かったかもしれません。

言いたいことが言えずに、権力がある人の言いなりになり苦しむ人が増える世の中。面白ければなんでもよいと、人を傷つけていることも知らずに放送されるテレビ番組。

そんな世の中が良いはずがない。そんな世の中の方がおかしいです。

無意識に傷つけていることを反省しなさい

駄目なものは駄目と騒ぐから、やっていいことと悪いことを考えるというステップが生まれるわけです。そう考えれば、誰もが自分の意見を発信することができる仕組みがある世の中、これは素晴らしいことです。

ダウンタウンの浜田さんの表現に「差別」意識がなかったと信じてます。でも、その表現について、視聴者の中には「差別」と捉えてしまう人もいて、その批判の声が発信され拡散すれば、テレビ番組の作り手が反省するわけです。

批判の声が、「埋もれたまま」か「世に出ていく」かどちらがいいかと言ったら、やっぱり世の中に出ていく方がいいのです。そのおかげで、「テレビやマスコミが好き勝手に表現し報道することで、傷つけている人がいる」ことへの抑止につながるかもしれません。

未熟な自分を反省し、正す

想像すれば気づく、批判の声は悪くないこと

もし誰かが私の身体的特徴を誇張して物まねをして笑いを取っていたとしたらどんな気持ちか?

それを見て世間が爆笑していたとしたら、どんな気持ちか?

その時、私の家族はどんな気持ちか?子供は学校でなんて言われるだろう。

きっと、その物まねを許せないでしょう。

そんなとき、第三者がその物まねは失礼だと言ってくれたらどんな気持ちか?

きっと、嬉しいでしょう。

そう考えると、やっぱり批判の声は悪くないと思えます。

相手のポジションになって考える

最初私は、批判の声がテレビをつまらなくすると考え、批判の声を悪と捉えてました。

浅はかでした。

差別で苦しんだ人の視点で見れば、悪は私の方なのです。自分のポジションを相手のポジションに変えて想像したからこそ、自分の過ちに気づきました。

そして自分がブログという手段で発信する立場だったから、相手のポジションに立つというプロセスを踏むことができたと思います。

相手のポジションに立って考える。そういう想像力やプロセスは絶対に必要なことです。

今回の件を通して、自分の未熟さに気づけてよかったと思います。

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