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文章が書けない時に進むべきは、エリートの道か自分の道か?

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前回は、「書くのがしんどい」という書籍を紹介しました。

書けないは才能のなさではないこと。それに書けるようになってもしんどさは続くことだから、自分なりに書く工夫していくことが大事であることが学べ、気を楽にしてくれた本でした。その「書くのがしんどい」と同時期に読んだ「ライティングの哲学」というタイトルの本です。「ライティングの哲学」も書けない悩みについて触れていますが、違った気づきを与えてくれます。

成功したければ、成功だけでなく失敗も学ぶこと。同じように、文章を書きたければ、書く内容だけでなく書けない内容について学ぶほうがいいです。書けないこととどう向き合っていくか、いろいろと考えさせてくれる、そんな内容でした。

ライティングの哲学

文章が書けないとほざく神々たち

まず、読んでほしいのが本書のはじめにの冒頭です。

なにかを書こうとして、白紙のファイルに向かって孤独にフリーズしているならこの本のページを繰ってほしい。ぼくらも同じように、それぞれ書けなさを抱えながら悩み、苦しみ、もがいている一人の執筆者なのだから。

なにかを書くプロセスの中で、書き継ぐことが苦しい、途中でやめてしまった、書き終えることができないと、書きかけのファイルを開くことさえできなくなっているならこの本のページを繰ってほしい。ぼくらも同じように書きかけの原稿をそっと閉じてすべてを忘れてしまいたいと願う一人の執筆者なのだから。

なにかを書き終えて、こんなの誰でも書ける、クソみたいな文章を書いてしまった、これではダメだと、せっかくの原稿をフォルダの奥にしまい込もうとしているならこの本のページを繰ってほしい。ぼくらも同じように、できてしまった原稿を認めることができず、画面の前で絶叫している一人の執筆者なのだから。

ライティングの哲学 (P3~4)

「原稿レベルの話じゃないか!どこが書けないんじゃボケが!」罵りたくもなるもの当然です。ブログの文章ごときで書けない私とはレベルが違いすぎるじゃありませんか。

まず、本書は、千葉雅也氏、読書猿氏、山内朋樹氏、瀬下翔太氏が書けない悩みについて語っておりますが、第1章を読み進めても、やはりレベルが違うことがわかります。例えば、千葉雅也氏の著書の多さ、読書猿氏の書籍の分厚さを確認してみましょう。「これだけ書けて、書けない悩みを語らんでくれよ。」と思う人もいるはずです。

野球に例えるなら、プロ野球選手の打てない悩みと、バッティングセンターで素人の打てない悩み。それくらい悩みのレベルが違うのです。下々の世界に住む凡人の私には到底ついていけない、彼らは執筆者として神々の方達なのです。

なぜ、神がこの本を出版したのか不思議です。凡人が、この本で何か学べるのでしょうか。

文章が書けないのは言葉が他者だから・・・?

ところが、読み続ければ続けるほど、この神々の方々は、完璧ではないことがわかります。
ツールで試行錯誤する。書いたものを捨てる、締切による諦め。そういう文章という海のなかで、溺れないよう必死に泳いでる様子が伺え、およそ神と思えぬ苦悩を経て、作品を仕上げていることがわかります。といいますか、神々が使っているツールを私も使ったことがあるため、共感できるポイントがあったのです。

共感できるポイントがあれば、神々の悩みから学べるものがあります。例えば、このあとがき。

言語は自分のものではない。その根本的事実に立ち返るのが重要だと思う。言語は、自分の外で、自分が生まれる前から使われていたわけで、それを借り受けて使っている。どれだけ自分の意を正確に伝えようとしても、言語とは他者であって、ぴったりに意を実現することはできない。そこでウンウンと苦しむわけだが、しかししょせん言語は他者なのだから、と割り切れば、なんというか、自分と衣服のあいだに隙間があることを受け入れるように、ある程度の「ぶかぶか感」で、まあこんなものかと言葉を流していけるようになってくる。

ライティングの哲学(P267~268)

言語は他者、目から鱗です。この考え方は新鮮です。「書けない」の本質をついている気がします。お見事。
というのも、今、私は目から鱗という言葉を使いましたが、この言葉じたいは私が生み出したものではありません。今の私の感情に一番近い言葉として、他人も使っている言葉の中から選択し、表現の道具として使っただけです。
ですが、目から鱗という表現で、自分の感情を完璧に表現できているかというと、実は違います。もっと他の表現はないものかと、少しだけジレンマがあります。このジレンマも書けない悩みに括られます。そして、このジレンマが積み重さなると、「自分には書けない、才能がない」というネガティブな感情の増幅に繋がっていくわけです。人によっては潰れてしまうかもしれません。

だからこそ、「まあ、いいか、目から鱗で」というように割り切りが必要なのです。神々も凡人も同じなのです。本書を読むと、それがよくわかりました。是非、「はじめに」と「あとがき」だけでも読んでみてください。

 

ライティングの哲学:まとめ

文章が書けないときも気分は湯船に浸かるように

文章の上達を道に例えるなら、私の道があったのに、神々の道を歩もうとして、神々の教えを身につけようとしてた気がします。
でも、どのように書くのがうまくなっていくのかは、本当はひとそれぞれなのです。だけど、自分に出来ないと思い込んでいるせいで、本屋に行き魔法の書を探してしまいます。自分でノウハウを作った方が力がつくのに、なぜか自分の外にノウハウがあり、誰かの教えで身につくような錯覚に陥っています。そして身につかなくて悩むわけです。

しかし、本書「ライティングの哲学」や前回紹介した「書くのがしんどい」を読むと、それぞれの神々のような執筆者が違った方法で「書けない」に取り組んでいるのがわかります。その様子は、人生の面白さにつながっていると気づかされます。自分で試行錯誤することの大切さをあらためて実感したのです。

P118以降の読書猿氏の『断念の文章術』はなかなか面白いです。神々は、断念しているのです。凡人だって、断念していいのです。自分の理想が高すぎて、自分で超えられない壁を作っていることにも気づかされ、バカバカしくなりました。

何冊も文章術本読んでも、実力が上がらない自分。何冊もコーチング本を読んでも、成長しない自分、何冊もビジネス本を読んでも、成功しない自分。無駄が多いですが、何冊も読んだかいがありました。少しだけ無駄なことも許せる気がしてきたので。

なんとなくではありますが、文章が書けなくても、泥沼にはまるのではなく湯船につかるような感覚で、書く作業に打ち込めそうな気がします。書けない悩みがある人はご一読あれ!

 

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