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親として、本能のまま生きる子供の暴走を止めるべく叱るのは必要なこと。
しかし、あくまでも子供を叱る目的は、世間に迷惑をかけないために必要な最低限のマナーを教えるものであるべきであり、親の価値観を押し付けるものであってはならず、ましてや親のイライラをぶつけるものであってはならないと自分に言い聞かせておりますが、つい叱っているときはそのことを、忘れてしまいがちな私。
そんなときは、読み返したいのが、D・カーネギーの名著「人を動かす」にある「父は忘れる」という、親の心得を思い出させてくれる名文なのです。
目次
父は忘れる|D・カーネギー「人を動かす」
「人を動かす」の名文「父は忘れる」で涙腺決壊寸前
私は、D・カーネギーの本に苦手意識をもってました。
なぜかといういと、以前、D・カーネギーの「道は開ける」を読んだことがあるのですが、書籍内の時代が古いせいか事例も古いこと、同じような内容を繰り返し語られているため、飽きてしまったからです。また、翻訳も読みづらかったため、睡眠誘発本でした。
しかしながら、セールスコピーライティングなどの勉強をすると、必ずと言っていいほど、さまざまなセールスライターの方が、D・カーネギーの「人を動かす」をおすすめ本として紹介しているのも事実。そのため、仕方なく読むことにしましたが、読み進めること28ページ目、名文「父は忘れる」に出会ったのです。
父は忘れる
坊や、聞いておくれ。お前は小さな手に頬をのせ、汗ばんだ額に金髪の巻き毛をくっつけて、安らかに眠っているね。お父さんは、ひとりで、こっそりお前の部屋にやってきた。今しがたまで、お父さんは書斎で新聞を読んでいたが、急に、息苦しい悔恨の念に迫られた。罪の意識にさいなまれてお前のそばへやってきたのだ。
お父さんは考えた。これまで私はお前にずいぶんつらく当たっていたのだ。お前が学校へ行く支度をしている最中に、タオルで顔をちょっとなでただけだといって、叱った。靴を磨かないからといって、叱りつけた。また、持ち物を床の上に放り投げたといっては、どなりつけた。
今朝も食事中に小言を言った。食べ物をこぼすとか、丸呑みにするとか、テーブルにひじをつくとか、パンにバターをつけすぎるとか言って、叱りつけた。それから、お前は遊びに出かけるし、お父さんは駅へ行くので、一緒に家を出たが、別れる時、おまえは振り返って手を振りながら、「お父さん、行っていらっしゃい!」といった。すると、お父さんは、顔をしかめて、「胸を張りなさい!」といった。
同じようなことがまた夕方に繰り返された。私が帰ってくると、お前は地面に膝をついて、ビー玉で遊んでいた。
ストッキングはひざのところが穴だらけになっていた。お父さんはお前を家へ追い返し、友達の前で恥をかかせた。「靴下は高いのだ。お前が自分で金を儲けて買うんだったら、もっと大切にするはずだ!」-これが、お父さんの口から出た言葉だから、われながら情けない!
それから夜になってお父さんが書斎で新聞を読んでいる時、お前は、悲しげな目つきをして、おずおずと部屋に入ってきたね。うるさそうにわたしが目をあげると、お前は、入口のところで、ためらった。「何の用だ」とわたしがどなると、お前は何もいわずに、さっとわたしのそばに駆け寄ってきた。両の手をわたしの首に巻きつけて、わたしにキスした。お前の小さな両腕には、神様が植えつけてくださった愛情がこもっていた。どんなにないがしろにされても、決して枯れることのない愛情だ。やがて、お前は、ばたばたと足音をたてて、二階の部屋へ行ってしまった。
ところが、坊や、そのすぐ後で、お父さんは突然なんともいえない不安におそわれ、手にしていた新聞を思わず取り落としたのだ。何という習慣に、お父さんは、取りつかれていたのだろう! 叱ってばかりいる習慣-まだほんの子供にすぎないお前に、お父さんは何ということをしてきたのだろう! 決してお前を愛していないわけではない。お父さんは、まだ年端もいかないお前に、無理なことを期待しすぎていたのだ。お前を大人と同列に考えていたのだ。
お前の中には、善良な、立派な、真実なものがいっぱいある。お前の優しい心根は、ちょうど、山の向こうからひろがってくるあけぼのを見るようだ。お前がこのお父さんにとびつき、お休みのキスをした時、そのことが、お父さんにははっきりわかった。他のことは問題ではない。お父さんは、お前に詫びたくて、こうしてひざまずいているのだ。
お父さんとしては、これが、お前に対するせめてもの償いだ。昼間にこういうことを話しても、お前にはわかるまい。だが、明日からは、きっと、よいお父さんになってみせる。お前と仲よしになって、一緒に遊んだり悲しんだりしよう。小言を言いたくなってもこらえよう。そして、お前が子供だということを常に忘れないようにしよう。
お父さんはお前を一人前の人間とみなしていたようだ。こうして、あどけない寝顔を見ていると、やはりお前はまだ赤ちゃんだ。昨日も、お母さんに抱っこされて、肩にもたれかかっていたではないか。お父さんの注文が多すぎたのだ。人を動かす文庫版(P29~30)
「やばい、これは泣く・・・」娘を持つ父としての私の心を掴む文章に、通勤電車内であるにもかかわらず涙腺崩壊寸前でした。
親として子供へのまずい叱り方を思い出す
朝、学校行く前にグズグズしている娘を叱る私。それでも玄関を出るとき「パパ、行ってきます!」と笑顔で手を振る娘。そして、玄関を閉めた後、再び扉を開けて「パパ、行ってきます!」笑顔をプレゼントしてくれる娘。「ああ、さっきはもう少し優しく言ってあげればよかったな」と後悔する私。
そんな朝の出来事と、「父は忘れる」の出来事が見事に重なり、思わず感傷的になってしまいました。しかし、今は通勤中の電車の中、涙がこぼれないよう口を覆っていたマスクに、こっそりと涙をしみ込ませて、なんとかその場をやり過ごしました。
そして、「父は忘れる」に続くの次の文章も、胸にしまっておきたい心得です。
人を非難する代わりに、相手を理解するように努めようではないか。どういうわけで相手がそんなことをしでかすに至ったか、よく考えてみようではないか。そのほうがよほど得策でもあり、また、面白くもある。そうすれば、同情、寛容、好意も、自ずと生まれ出てくる。
人を動かす文庫版(P30)
子供のイライラする行動も、「なぜ、そういう行動を取ったのか」と理解するように努めれば、イライラする必要がなかったかもしれません。
以前の話ですが、娘が何かを折り紙などで作っていて部屋を散らかしたため、「散らかすな、片づけなさい」と叱ったことがあります。それでも、グズグズ作っていて、何を作っているか答えもせず、私は「いい加減にしなさい」と声をあらげてしまいました。しかし、娘は私へのプレゼントを作ってくれていて、笑顔で私に「はい」私てくれた時は、自分の馬鹿さに怒りが沸きました。同時に、親の愛を越える子供の愛に胸がいっぱいになり、思わずギュッと娘を抱きしめたものです。
このように、私は何度も娘の真意を確認せずに、まず叱ってしまうことが多々あったはずです。親として、そんな子供の叱り方をしてはダメですね。そういう経験があるからこそ、D・カーネギーの言いたいことが理解できます。
親として振り返りたい、子供の叱り方
「父は忘れる」のケースの坊やは、かなり良い子です。しかし、実際には、子供は簡単に言う事を聞きませんし、反抗してきますし、グズりますし、泣きわめきますし、言われたことをすぐ忘れてしまいますので、躾は簡単でありません。
そのため、親は何度も注意しなければならず、ときには感情的にもなりますし、叱ることの方が多くなりますが、それは仕方がないことなのかもしれません。親も子も人です。人は不完全ですから、一度で言われたくらいで出来るようになるわけではないですし、叱る親もやり方を間違えることはあるでしょう。
しかし、叱り方に過ちはなかったか振り返る必要があります。子供の自尊心を傷つけるのではなく、行動を注意するようにしていたかどうか、正すことがあるなら正す必要があるでしょう。子供であっても、自尊心を持つ人であることを私は忘れてはならないのです。
その正す姿勢が子供に伝われば、子供が親になったとき、よい叱り方をしてくれるはずです。叱り方だって、親から子に伝わるものだと私は思うのです。
父は忘れる|D・カーネギー「人を動かす」:まとめ
子供の愛に甘えていてはダメ
そもそも、私たち大人さえ、一度叱られただけでも、自分が傷つけられたような気がします。そのことを忘れ、毎日のように子供を叱り、傷つけているかもしれないのが親なのです。同じをことを大人にすればトラブルになり、傷つけたことに気づくでしょうに。。。
子供は傷つけられたことを忘れ、あるいは忘れたふりをしてくれているのかもしれませんが、何度も間違える未熟な親を許し愛してくれます。親はそんな子供の愛に気がつかず、ときには子供の自尊心を傷つけてしまうような言動で叱り、平然としているのです。そんな叱り方をしていたであろう私はダメ親です。それは、子供の愛に甘え、親としての自分を磨いていないと言えるからです。子供ばかりが正すのではなく、親だって正さなくてはならないことを反省すべきなのです。
叱っただけで終わらず、自尊心を傷つけていないか自分の叱り方を見つめ、叱り方を磨いていくのも親である私の努めでしょう。
今回、父を忘れるを読んで、そう思う次第であります。